ぼっち試論 – その現状について –

こんにちは。

 

これからぼっちの実態について、長年の生活から導き出された経験則を各論で書き出していこうと思います。なお、現在僕が大学4年であることから、主に学生生活について述べます。全編通じて長大になることが予想されます。関心のあるかたは後日投稿予定の他のエントリーも、ご参照ください。ぼっちの理由はごく私的になるため割愛しますが、この状況を僕は気にもとめていません。
ただ、孤独には人を癒す力もあるとだけここでは言っておきます。

 

 

1.ぼっちの現状
友人あるいはそれに準ずる存在がいない。新学期はグループを組む講義を緻密に嗅ぎ分け、すみやかにこれを排除する。通学中は、決して自分が小さいわけじゃないのになんかみんなでかく感じる。スニーカーの存在の耐えられない軽さが僕の足取りを軽快に不器用にする。時間割の調整や、代返、意図した遅刻といったあらゆるずるを弄することができず合間合間に通路を肩身の狭い思いをしながら通る。便所飯は流石にないが、そうする猛者も幾ばくかいる。有益な会話はすべて、ジェントルマンズ・クラブよろしく便所でなされるので、さながら便から始める異世界生活だ。一家をなしている。おかげで別の棟の便所で用を足す。昼休みの学食は1人を強調し、精神衛生上よくない。危険すぎる。当局で規制すべきだ。講義ではペン一本など、なんて低級な座席の確保が僕を教授へと近付ける。傾斜が織りなす前列のフィルハーモニー。メンタルを回復する要素がない。僕はこの講義の演者でしかない。いや、身寄りのない清楚で可愛い子が偶然隣で背筋を指揮者よろしくピンと伸ばし、プリントを笑顔で回してくれたとき、人はここをセンターオブジアースと感じるのではないか?少なくとも私はそう思う。そんなささやかな喜びを胸にそっとしまい込み熨斗をかける。この場合内熨斗がいい。意外と集中してノートをとる。不潔な学生が多く、鼻水が止まらない。だが慣れたものだ。直帰の早さたるや、鷹のごとしとでも言いたいが、ぼっちはぼっちであることを悟られてはならない。あくまでも《存在しない》概念だから、少し時間を置いて帰宅する。その間講義のペーパーを真面目に書きちらし、次回の講義で有益なものとして触れられることで毎回ちょっとした恥をかく。家ではろくに生産的な活動をする気力もないが、何故か性欲はある。人間の危機だ。そして明日が始まる。しかも未だ起きている。
概ねこういうものだろ?

 

 

1.1ぼっちの現状たるや
概ねこのようなものであり、大変な危険と困難を伴う。問題点を抽出すると、下記2点になる。
A.大学に居場所がない
B.自分だけの時間に意義がない
これは鷹のように解決へと導く必要がある。1人でいるときは、サラマンダーよりもずっとはやいのがぼっちだ。

 

A.大学に居場所がない
何故なら、ぼっちだからだ。そうゆうのは詭弁だ。ちなみに筆者は詭弁を音だけで美味しい飯だと思っていたことがある。偏差値が48しかないからだ。なぜ居場所がないのだろうか?新入生向けのイベントに気力を振り絞って出たはいいが既にLINEでグループが形成されており、肝心の当イベントには全くやる気のない人しかいない。出会いの前の出会いが何故に起こっていたからだろうか。そんなひどいことがあってよいのだろうか?声を荒げたい。宅浪後で、老人だらけの図書館に慣れていたからか若人にめまいがしたからだろうか。志望校に落ち、興味のない分野をこれから専攻せざるを得ないからだろうか。そのどれもが僕を小刻みに、鮮明に、ぼっちにしたのはここだけの話にしよう。
サークル活動には何故かこれといった魅力がなく、飛び込む勇気も気力ももうない。出会いの一つも得られずとぼとぼと慣れない道のりを、さっきまでのほんのりとした期待から未だ淡い失望に、負のエネルギー変換して帰宅する君の背筋を僕は少しでも伸ばしたい。

 

B.最初からこうなることが決まっていたみたいに
自分の時間に意義がないわけだな。まず、大学でのことを考えたい。何故なら我らが職場であるからだ。耳をそばだてながらキャンパスを歩くと、必ず「だるい」という言葉が聞こえてくる。偏差値が48しかないからだ。これを単なる現象として済ませてはいけない。あるあるが無ければ古典なんていらない。むしろ全てが記憶すべき地獄になる。ともかく、だるいのは非常に良くないのではないか?と私は思う。かくいう私もだるいときがある。「だるいサークル」というものがもし公式にあるならば、最大派閥となりそれは地域の壁を越えて結託し、日本は一躍怠惰の渦に巻き込まれ、ベーリング海峡を通じて世界に飛び火し、一大センセーションを巻き起こし、やがて歴史となるだろう。要するに、こうならないように体調管理を徹底するべきというのが僕の持論だ。
だるさが無ければ、雲間から光がさす。やりたいことやすべきことに気合が入らなくていい。人生は長い。不安は数知れない。だからせめて安寧を大切にしたい。そのためには自分の時間だけにでも、ただそれだけにでも。あまりにも切ない動機で構わないじゃないか。意義を見出したい。エロいフィギュア収集でも、河川敷を散歩するだけの4年間でもいい。とにかく、僕のように自殺寸前までいかないようにするだけで十分だ。ただ生きているだけと思っていても、君が珍しく機嫌良く、もしくは努力して不器用な笑顔で店員に接することが出来たとき、いや出来なくとも、気持ちがあれば解る人には解る。解る人には伝わる。それだけで人生には意味が生じる。とある店員として、そして客として、僕は小さく勇気付けられる。2017年10月に本気で死のうと思い詰めながら入ったあるローソンの店員は40をとうに越えていたが、僕の落ち込みとは裏腹に「ありがとうございます」と優しく迫るその笑顔に万感の思いがあった。物語はいくつもあって、そのどれかに強く感動することもあるだろう。でも、もっと些細な物語にも気がつける人でありたい。そうすれば世界はもっとたくさんの色をなしていることに気がつく。
自分の血を残すには、ときに誰でもいけるくらいのタフネスが必要だ。そんな強さは、一見価値のない学生生活でも、正面から取り組むことで涵養できる。そして、肩を落とすということは、真正面から問題に向き合っていることに他ならない。だから、意義というものはほとんど無条件にある。ぼっちはぼっちでない人たちによって支えられている概念だ。感謝出来るはずがないはずなのに、日々の取り組みの先には感謝したい日がいつかやってくる。そうなれば君は、一人前のぼっちになったといえる。